昭和43年5月19日 朝の御理解 (末永信太郎) №43-074
人間はすべて神の氏子と、神の氏子と仰せられる。ね。(ふんじん?信心?氏子?)は神様の子だと、神様の子供だと、こう言うのです。信心をさせて頂いたら、先ずそこのところが分からなければいけません。人間は神の氏子。そこで、次に分かれされますことは、この世は苦の世でも、(苦の世?世界?)でもなくて、この世は神様の世界だということが分かります。神様が住んでおられる世界。
人間は神の氏子と、人間は神様の氏子だということを言われますと、その神様たちが住んでござる、この世界。ね。人間の住んでおるところは、全部、だから神の世界ということが言えますですね。この世は、苦の世でも苦の世界でもない。この世は神の世界である。そこのところを教祖様は、真の道の大綱の中に、疑いを離れて、広き真の大道を開いてみよ。わが身は神徳の中に生かされてあり、と説いておられます。ね。
疑いを離れて、真の大道、大きい道ですね、を開き見よ。真の大道というのは、信心がです、天地に通う道。そういう道を分からせて頂いて見よと、こう。なるほど、この世は神の世界だなあ、この世はなるほど、神様の御神徳の中にあるんだな。天地の親神様のお懐の中にあるのだな、と。ね。ということが分かる。
次に、こうも教えておられれます。大地のうちにおいて、金乃神の大徳に漏るるところはなきことぞ、と。大地のですね、この地球上の中に、金乃神というのは、天地金乃神のことですね。天地の親神様の大徳に漏るるところはない、と。ね。その大徳の中に、または、御神徳の中に生かされておるのでございます。ところが、実際問題を広うてみますと、この世の中にはあまりにも苦しいことが多い、難儀なことが多い。ね。その難儀のために、苦しい、または喘ぎ、ね。喜びなどというものは、もう、全然ない。はあ、難儀っちゃ来るしいことだ、というような生活をしておる人がどのくらい沢山あるやら分からない。
それは、どういうことかと言うとね、私どもが神様の氏子であるという自覚。ね、神様の氏子であるということを知らないからなんです。ね。私は今朝方、こういうようなお夢を頂いた。何とはなしに、こう、薄暗いような感じである。もう、ありとあらゆる、その、家も壊れかかったり、壊れたり。ちょうど、戦争があった後のような感じである。もう、廃墟に化したといったような感じである。
その中を私は一生懸命に、その、もっと良い場所というか、まあ、幸せなところというか、ね、そこを一生懸命、その、そういう町か村を、この、通り抜けようとしておるようなお夢であった。そこには、鉄道が敷かれてある。けれども、その鉄道も、もう、レールはもう寸前に、こう立ち切られたような感じ。汽車もそこにあるけれども、横転しておる、もう倒れて脱線しておるというような状態。
この頃、北海道で地震がございましたね、大変な地震があったそうです。その写真なんかを見ると、家が壊れ、鉄道がその、軌道がよがんでしまって汽車が転覆しておる。まあ、そういうような状態。しかもそれが、何かこう、戦争の後であるから、そういう風にあるといったような感じの中を、私は一生懸命、その歩いておる。そしてそこをですね、もう、どのくらいの時間を歩いたか分からないけれども、一生懸命、もう、様々な難儀に遭いながら、そこを、その町を通り抜けようと努力しておる。
ところが、段々、その薄暗かったその感じのところが、だんだん、こう明るくなって来た。ところが、まあ、この辺で言うなら博多辺りのような町のような、その、立派な都会に、その、出た。そこには、町を電車も走ってる、汽車もある、自動車も通っておる。上には、飛行機も飛んでおる。そこで活動をしておる人達が、もう生き生きと喜びいっぱいで、様々な銘々の仕事に携わっておる。
そして、私は思い、はあ、これで助かった。そういうようなお夢であった。そういう中からですね、私はその、今朝の御理解を頂いております。ね。お互いが責め合い、傷つき合い、ね、自分さえ良かればよい。ね。人の茶碗でも、叩き落してからでも、自分が幸せになろうとする。ね。これは、そういう人間の浅ましい、心と心の戦い。ね。そこにお互いが傷つき合い、壊し合いしておる姿が、その薄暗い世界であったじゃろうと、こう私は思う。ね。実にその、浅ましい世界。
言うならば、そこは、地獄の様相を呈した世界。ね。そこのところを抜け出ることに一生懸命。いや、そこにも、軌道もある。ね、鉄道も敷かれてあるのだけれども、その鉄道すらも、もう、壊されてしまっておる。機関車は転覆しておる。ね。神様は色々お知らせを下さる時に、乗り物はお徳と、こう仰る。ね。
この世は徳の船に乗って渡れとか、ね、言うなら、この世は徳の汽車に乗って渡れ、徳の自動車に乗って渡れということも、だから、言えるわけですね。もう、それこそ血みどろの世界。言うならば、食うか食われるかの世界。恐ろしいことです。けれども、それを皆は平気で言うたり、平気でそれを、そういう生活をしております。ね。例えば、考えただけでも恐ろしい。食うか食われるかの世界。ね。
相手を倒すか、こちらが倒されるかという、そういう世界。ね。そこに私は、この真の道というかね、信心の教えというものが必要であるということが分かる。ね。相手を責めないで済む私、相手を傷つけないで済む私。戦い合う世界ではなくて、ね、助け合うて行く世界、拝み合うて行く世界。ね、そこを、私は教祖の神様は、ね、わが身は神徳の中に生かされてあるという、叫びの世界。ね。
大地のうちに金乃神の大徳に漏れるところはなきことぞ、と仰る。指一本で押すだけでも、天地の親神様の御恩徳が漲っていないところはないのだけれども、私どもは、ね、神の子、神の氏子であるということを知るために、お互い信心をさせて頂いたら、そのことが分かった。なるほど、私どもは神の氏子だ、と。大天地に対するところの、私どもは小天地だ。同じものを備えておるのだ、神様なのだ。ね。
その神様が根性の悪いことを言うたり、人を責めたり、叩いたり、殺し合ったりするはずはないのだけれども、ね、それを人間がやっておるというのは何かと言うと、ね、私どもの、もう、生まれるとすぐから伴うておるところの我情である、我欲である。言うならば、めぐりである。
そのめぐりが殺し合ったり、戦い合ったりしておるわけである。ね。ですから、私どもの心から、その我情がとれる、我欲がとれる。ね。そこに初めて見るものは、神の世界である。ね。そこに初めて感じさせて頂けれるのは、なるほど、御神徳の中に生かされてあるんだな。天地の親神様のお懐の中にあるんだな、と。親の懐の中にある、ちょうど赤子のように、こちらが求めなくてもお懐の中ですから、神様がちゃんと、お乳は親が与えて下さるはずなんです。ね。
いわゆる、御神徳の中に生かされておるところの喜びというのは、私どもが幸せになって行けれる一切のものが、ね、この世の中にはあるのだ。それを求めんでも、頼まんでもそれを与えられる、必要なものが必要に応じて与えられる。そういう世界なのだ。そういうおかげの頂けれる世界なんだ。
私どもが神の氏子であるという自覚に立ってね、この世は神の世界であると分からせて頂くと、そういうことになって来るのである。責めることもいらない、叩き合うこともいらない、傷付き合うことは、尚更いらない。ね。助け合う、ね、拝み合う。そこに、その拝み合いの生活、信心の生活というものがなされる。
ね、そのためには私どもが、この世の中に現れておるところの廃墟に化したような世界から脱皮しなければならない。そこを抜け出らなければいけない。ね。そのために、修行が必要である。ね。恐し合ったり、殺し合ったり。ね、いわゆる、戦いから戦いに明け暮れておる世界から、ね、平和な世界への、いわば信心というのは住み返ることなの。そこのところを、私は信心修行のいわば、その道すがら。その道すがらの中には、腹の立つこともやっぱりある、苦しいこともある。
ね、様々なことがあるけれども、そのところを、私どもが神を杖についての信心辛抱し抜かせて頂くうちに、ね、いわば、地獄から天国とでも申しましょうかね、に住み返ることのおかげが受けられる。そういうおかげを受けるということが、神様の願いである。同時に、また、私どもの願いでもなからなければならない。ね。それには先ず、疑いを離れてと、こう仰る。ね、疑いを離れて、広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてある。ね。
先生はああ言うて話をなさるけれども、ね、と言う。これはもう、すでに疑っておるのである。ここではね、まあ、言うなれば、私が、ね、わが身は神徳の中に生かされてあるという喜びに日々浸らせて頂いて、おかげを受けておる。ね。相手を責めないで済む心。ね。傷つき合わないで済む心。戦う心、いわば、打ち向かう者があったら、打ち向かう者には負けて時節を待たせて頂く心。そういう心に取り組んで、そういうことに段々なりつつある私。ね、それが完璧とは言えなくても、ね、そういうおかげが頂けておる私。
そこにはいつも、暗いところがない、明るい。しかも、なるほど、徳の船に乗っておられるのであろうか、徳の機関車に乗っておられるのであろうかというように、私がいつも楽なおかげを、まあ、頂きつつある。私が求めずして、ね、私が必要なものは、神様が必要に応じて下さっておる事実を、みんなは見ておる。ね。疑いを離れて、広き真の大道を開き見た人の姿である。
そこには、日々が神恩報謝の生活。神様、有り難うございます、勿体無いことでございます、という有り難い、勿体無いという生活がそこに営まれておるわけである。その周辺には、やはり、そういうおかげの頂けれる事実を自分にも体験させてもろうて。そういう道をいよいよ進めて行こうとしておる人達の姿が、皆さんの姿である。ね。初めから疑うてかかれば、もう、それまでである。一遍お参りしてみた。ね。2~3遍な参ってみたけれども、と言うたんではおかげは受けられない。ね。
そういう、本当にお釈迦様が仰ったように、たしかに、この世は苦の世、苦の世界なのだ。それは、そういう一つの見方が出来るのである。それは、責め合うておる世界、戦い合っておる、壊し合っておる世界は、なるほど苦の世である、苦の世界なのである。ね。
この世では、もう、仕方がないから、あの世で極楽行くための稽古をしとこうというのが、お釈迦様の説かれた道である。金光大神はそこに、ね、私どもの心の芽が開ける。私どもが神の氏子としての自覚。はあ、神の氏子としての自覚が出ける。ね。そこには、もうすでに、神様の世界がそこにある。ね。指一本で押すだけでも、金乃神の大徳に漏るるところはないということが分かる。そこに迷信が打破される。
迷うたことを信じておっては、いわゆる、迷うたになってしまう。ね。そこには、日柄が良いの日柄が悪いの。ね。こちらの方に行きゃ、金神様がござるの、こちらの方は方角が悪いといったようなことも言わんで済むのである。神様のお懐の中にあるのであるから。ね。いわゆる、もう、自由自在である。
それを皆さんは、言うならば自分自身も日々体験しておる、させてもらう。同時に、それを目の当たりに見たり聞いたりして、いわば、その信心の世界への住み返えをしておられるのである。ね。我情我欲を離れて真の道を知れよ、ともあります。ね。そういう真の世界、真の道というものを知るためには、どうでも、私どもが我情我欲を、その手段としてね。そういう、この世が極楽である、この世が有り難い神の世界であるということを分からせて頂くためには、先ず我情我欲をとれと、こう仰る。
我情我欲をとれということは、自分の思いを先ず捨てよということである。ね。そこには、どういうことになって来るかと言うと、神様任せということである。慌てんでも良い、焦らんでも済む、神様任せになっておけばいいのである。ね。その我情我欲が私どもから段々離れて行くに従って、分からせて頂くのは、わが身は神徳の中にあるということが分かって来る。
神徳の中というのは、ね、人間が幸福になって行くための一切のものが、そこには恵まれてある世界である。ね。着物も、食べ物も、建物も、衣食住は言うに及ばず、ね、一切のものが整うたところの世界である。ね。そういう御神徳の世界、なるほど、神様の世界というのは、そういうおかげの受けられる世界であるということが分かる。ね。我情を離れ、我欲を離れる。なるほど、わが身は神徳の中に行かされてあるんだなあ、ということが分かるから、ね、神様任せの生き方。ね。
自分は右に行こうと思ったけれども、神様が左が良いと教えて下さるから、左の方を歩かせて頂きよったら、このようなおかげが受けられたということになるのである。ね。そういう、私どもは信心のけいこをさせて頂いている内にです、ね、いよいよ、この世が神の世界であるということが実感される。
そこにはもう、ね、いわば、神様同士で喧嘩する必要はないじゃないの。責め合うこともいらん。喜び合い、拝み合うて行けれる世界。それには、先ず、私の心の中に、それが先ず私の家庭の中に、それが成されるおかげを頂き、それが隣近所へも、社会にも、ね、そういう私は信心の世界というかね、神様の世界の顕現とでも申しますですかね、を現して行くおかげを蒙って行かなければならん。
一つの見方をすると、この世は間違いなしに、確かに苦の世であり、苦の世界である。けれども、その苦の世、苦の世界には、いわば、ね、戦いがいつもあっておる。いつも廃墟の町に化してしまっておるような状態である。ね。温かいものがない、いつも暗い。そこに、よし神様の大道があっても、その大道のそれですら、皆が壊してしまっておる、軌道が壊れておる。そこに神様の救いの手があっても、それを壊してしまっておる。私の夢の中にある、その鉄道も壊れておるというのは、それなのである。ね。
ですから、そこから抜け出るために、私どもが一生懸命の精進、努力。いわゆる、我情を離れて、自分の思いを外した生活。ね。がめついところの我欲の生活からです、離れた生活をさせて頂くけいこを一生懸命させて頂くうちに、ね、明るい町に私はたどり着いて。そこには、電車も走っておる、バスも走っておる。空には飛行機も飛んでおる。様々な整えをする、ね、極楽の様相というものがそこにある。
そこに住まわせて頂くということがです、ね、神様の願いでもあると同時に、なら、私どもの願いでもあるのである。また、願いでなからなければならんのである。信心させて頂くということは、そういうおかげを頂かせて頂くための信心である。目先の一言が、二言が分かったり、それがおかげになったというだけでは、いけんのである。ひもじいから何か下さいて、そん時に与えられただけでは、もう、次にはひもじいのが、もう、何かの後には待っておる。ね。
そういう信心ではなくてです、ね、もう、限りなく無尽蔵に与えられる世界。そういう世界への、いわば住み返えが、私は信心生活だとこう思う。先ず、私どもは神の氏子であるという自覚を、神の氏子であるということを知らせなければいけん。ね。はあ、神様がこげな根性の悪いことば思いござる。この神様はこげな汚いことば考えござる。ね。その時には、はあ、それは神様が思いござるとじゃない、神様が感じござるとじゃない、自分についておる、自分自身は神様なのだけれども、それについておるところの、ね、家代々、ね、が溜まりに溜まり、付くに付くってきためぐりが付いておる。
そこで、このめぐりのお取り払いのために、一生懸命、精進をまずしなければならないことが分かってくる。めぐりのお取り払いのために、ね、そこには、本来、神の子としての私がある。ね。その神の氏子としての自覚が出けた人のところには、もう、そこは苦の世ではない、苦の世界ではなくて、ね、もう、そこはすでに神様の世界なのである。そうでしょうが。
神様が住んでござるところじゃから、神様の世界であるはずなのだ。それを、私どもの心から浅ましい、いわば、世界に私どもがしておる。ね。そういう風に分からせて頂く時に、いよいよ、信心が有り難い、尊いものであるということが分かってくる。ね。
そういう意味では、先ず、何と言うても、先生はああ言いなさるけど、ほんなこっじゃろうかというような、その疑いの雲を先ず払わなければ、その天地の大道は分からん、真の大道が分からん。真の大道を開き見ることが出けない。ね。そして、本気で我情を離れてみるけいこ。自分の思い、例えて言うならば、今日、久留米に行こうと思いよるけれども、御神意を頂いてみると、ああ、今日は久留米に行かんが良いて神様が仰るなら、ね、神様任せになってみることなん。ね。
そういうけいこをすることだ。ね。我情を、自分の思いを捨てて行くけいこをしなければいけん。じゃないと、いつまで経っても、ね、神の世界に住んでおっても、神の世界に住んでおる、いわゆる、ああ、有り難い、ああ、勿体無いというような生活の展開がない。ね。今日は皆さんに分かって頂きたいことは、ね、私どもは神の子である、神の氏子であるということ。その神の氏子が住んでおるところにね、地獄があるはずはない、暗い世界があるはずはない。明るい神様の世界がある。ね。
神様たちの出会いである、この世は。けれども、そこにです、そこに暗い問題が起こったりするというのは、それはめぐりとめぐりが戦い合っておるのであるから、そのめぐりを先ず、めぐりのお取り払いを頂かせて頂かねばならんということを知らなければならない。そして、そこの世界から脱皮して行く、そこの世界からだんだん遠退いて行く、外れて行く。
我情我欲の生活から、我情我欲を取り外した神様任せの世界に住み返えて行く。そこに、人間の幸せの世界。ね。いわゆる、安心の世界がそこにあることを分からせてもらう。ね。その安心の世界に住まわせて頂いて、日々が有り難いことである、勿体無いことであるという生活をさせて頂いておる者の上にしか、私は極楽はないと思う。この世では仕方がないから、あの世で極楽に行こうて言ったって駄目。
ね、この世で神の世界に住み得ておる人であって、初めて、その神の世界の延長であるところの、ね、あの世にもやはり神の世界がある。この世で極楽を開かせて頂いておって、初めてその極楽の延長があるわけです。ね。ですから、考えますと、もう大変なこと。信心のけいこというのは、もう、大変なことなの。
私どもが一生一代だけのことじゃない。ね。そういう大変な、いわば稽古をお互いはさせて頂いておるのであるから、ね、目先目先の小さい御利益などに惑わされずにです、ね、本当の信心を身につけて行くことのけいこを本気でなさらなきゃいけない。ここには、信心のけいこに来るところ。ね。
そういう、私はけいこをさせて頂くのでございますから。ね。先ず、自分自身の心の中に和賀心を求め、先ず自分自身の家庭の中に、拝み合うて行けれる生活を打ち立てさせて頂くところの喜び。ね、そういう楽しみを感じさせてもらえる信心を選ばなければならんと思うですね。どうぞ。